その他

正義か、差別か。児童性愛者の人権を認めるべきか考える。

 たとえば、このような事態が考えられる。

 ある日、突然、同性愛者と認定された人々の人権が剥奪され、かれらは逮捕され、その上で一様に「正しい欲望」を持つよう薬物による「矯正」ないし「去勢」をほどこされる。

 そして、その後も一般的な権利が認められることはなく、一生、「狂った欲望」を持った異常者として扱われる。

 どうだろう? LGBTの権利が声高に叫ばれる現在、このような事態を肯定的に捉える人は、いないわけではないにしても、多くはないのではないだろうか。

 もし、このような政策を希望する発言を行う人物がいたとしたら、その人は差別主義者として強く非難されることを免れないに違いない。

 しかし、それがもし同性愛者ではなく、少年や少女を性の対象とする児童性愛者だったとしたら? その場合でも同じ意見が集まるだろうか?

 おそらく、そうではないだろう。もちろん、「とんでもないことだ」という人はたくさんいるはずだが、その一方で「あたりまえじゃないか」、「それの何が悪いんだ」と主張する人物もまた数多くあらわれることは容易に想像できる。

 その意味では、この現代日本社会において、児童性愛者はまともな人権すら危うい「弱者」であり、あらゆる性的少数者(セクシュアル・マイノリティ)のなかでも最もひどい嫌悪を向けられている被差別グループなのである。

 じっさい、Twitterを眺めてみると、児童性愛者に対するヘイトスピーチとしか考えられない発言が大量に見つかる。

 これらのツイートを読むと、邪悪な悪魔にほかならない児童性愛者の人権を認めるなど笑止であり、そのような議論が進むことそのものが異常なことだ、と主張されている。

 ぼくはこういった意見は間違えていると考える。児童性愛者もまたこの国を形成する市民のひとりなのであり、ほかの性的少数者がそうであるように、罪を犯してもいないのに差別されることがあってはならないだろう。

 同性愛者の人権が認められるべきだとすれば、児童性愛者の人権も認められるべきだ。

 そもそも、人権概念に「例外」などあるべきではない。もし、「例外」を認めるとすれば、それこそまさに今日の人権を基盤とした社会においては決して許されるべきではない差別そのものというべきだろう。ぼくは、そう捉える。

 しかし、このような論の進め方をアンフェアだと考える人もいるはずである。ネットでもそういうふうに主張する人は少なくない。

 かれらはいう。同性愛者と児童性愛者は違う。同性愛者は互いに意思を確認しあえる大人に対して欲望を感じるが、児童性愛者は無垢な幼い子供に対してふらちな欲望を向けるのだ、これをいっしょにして良いはずがないではないか、と。

 なるほど、たしかにその通り。同性愛者と児童性愛者は違う。ぼくもそう思う。だが、その上でいうのなら、両者はその性的志向によって差別されてはならないという一点が共通している。

 性的な欲望を感じる対象が同性であろうが異性であろうが、あるいは子供であろうが、その時点では批判されるべきことではない。

 なぜなら、内心でどんな悪魔的なことを考えようがそれはその人の自由なのだから。「きっとこのような悪いことを考えているに違いない」などという理由で人が裁かれるようになったら、その社会はそれこそ地獄というしかない。

 ただ、もちろんこのような「きれいごと」では批判者を納得させることはできないだろう。かれらはいうに違いない。子供に性欲を向けること自体が罪だ、と。あるいは、いまは 我慢していてもいずれ子供に手を出すかもしれないではないか、と。

 これに対して反論することはできる。理屈の上では、内心の欲望を理由に人を逮捕するわけにはいかないし、いつか罪を犯す可能性があっても、いま現在、何もしていなければそれは犯罪にはあたらないのだ。

 しかし、そういったクリーンなロジックは児童性愛者に向けられるもっと生々しい嫌悪感に対してあまりに無力であろうと思われる。

 そもそも、年端もいかない子供に性欲を向けるような者が、まともな人間であるはずがないと思う人もいるかもしれない。そうした異常者は社会から駆逐するべきだと心から信じる人も少数ではないだろう。

 こうした心理は、あえていうなら、十分に理解できるものではある。特に幼い子供を持つ親であれば、そうした愛児たちに性的な欲望を向ける児童性愛者の存在は、とほうもなくおぞましく、邪悪そのものと思われても不思議はない。

 その嫌悪そのものを止めるすべはない(まさに児童性愛者の欲望を止めるすべがないのと同様に)。ぼくがここで求めたいのは、その嫌悪を社会正義と直結させないだけの聡明さである。

 ある人が児童性愛者を嫌悪することは自由だ。だが、それを普遍的な正義としてナタのように振り回しはじめたら、もう自由とはいえない。ぼくたちは、軽率にその正義に飛びつくことをくれぐれも戒めるべきだ。

 正義とはダイナマイト並みに扱いがむずかしいしろものである。本来、社会の大半の出来事は正義の白とも邪悪の黒ともいい切れない灰色の領域に属しているはずなのだが、それを無理に「白」と「黒」に分けようとするとき、何かの化学実験のように必然的に暴力が発生する。

 このような素朴で幼稚な二元論に根ざす正義の危険さは、いまさらえ説明せずとも、普段、ネットの言説を見なれている方ならよくおわかりのことだろう。

 ぼくたちは「正義の怒り」を暴走させないようよくよく気をつける必要がある。人類史に赤黒い文字で刻まれた数々の虐殺事件にしても、その多くは「正義の怒り」から始まっているのであろうから。

 とはいえ、このような理屈がどこまで現実的なのかは怪しい。何といっても、嫌悪をただ嫌悪に留め、社会正義と結びつけることを避けつづけることは高度に理性的な作法であり、多くの人は「自分の嫌いなものは悪だ」として恥じないだろうと思われるから。

 いや、当然、かれらのなかでは「嫌いだから、悪だ」などという子供じみた理屈で児童性愛者を排斥することを良しとするわけではないということになっているだろう。

 かれらの論理では、児童性愛者の権利を抑圧し、かれらを社会から排斥することには、自明な倫理的正しさがあるのであろうと思われる。

 だが、この、「自明さ」こそが問題なのであって、いま、人が、社会が「あたりまえのことだ」といってそれで済ませていることも「ほんとうにあたりまえなのか」と問い質していく必要があると思うのだ。

 この姿勢は、差別問題を考えるとき、必須のものである。なぜなら、被差別者とは「差別されている」ということが認定されないからこそ被差別者なのであり、差別者はつねに自分の行為や言説を「あたりまえのこと」として差別とは認めないものであるのだから。

 いい換えるなら、現に差別されていながらその事実すら認めてもらえない存在こそが最も悲惨な被差別者だということである。児童性愛者はこれにあたる。

 くり返す。児童性愛者の欲望や、その欲望がかたちになった作品に嫌悪を向けることは自由だ。しかし、それをまかり間違っても正義だと思い込んではならない。その種の思い込みは、悲惨な暴力をしか生みださないだろう。

 あるいは、そうはいっても、と考える人もいるだろう。やはり、子供を性欲の対象にしてしまうような人々は、何らかの人格的な未熟さを抱えたまま大人になってしまったのではないか。

 たとえば、「萌え絵」に夢中になる「オタク」たちなどは、あきらかにその絵に自分の身勝手な欲望を投影している。こういった人間はきちんと大人になるようその欲望を修正される必要があるのではないか、と。

 この種のロジックの問題点は、まず、児童性愛者の「性的志向」を自由に選び取ることができるものであるかのように語っているところにある。

 児童性愛者は、大人を性の対象とする異性愛者や同性愛者などがそうであるように、べつだん、自分の意思で「子供を好きになりたい」と考えたわけではない。

 欲望は神が貼ったシールのように人に植えつけられている。それがどのくらい先天的のものなのかぼくには判断ができないが、少なくとも性的な欲望のかたちを自分の意思で決定できる人はほとんどいないことはたしかだ。

 異性愛者の人に向けて子供を性の対象にしろといってもできないように、児童性愛者の人に大人を性の対象にしろということは無理があると考えるべきだろう。

 そして、もうひとつ、この議論は本来、児童性愛者ではない「オタク」たちをそのグループに入れてしまっているという問題もある。

 たしかにオタクのなかには幼い少女とも見えるキャラクターに「萌える」人間は少なくないが、だからといって即座にかれらが児童性愛者であるということにはならないのだ。

 もちろん、オタクでありなおかつ児童性愛者でもある、という人も一定数いるには違いないが、全体の比率として見れば少数だろう。オタクの大半は一定年齢以上の大人に対して欲望を感じる人間であろうと思われる。

 これに関連して、ネットでよくいわれているのが、「ペドファイル」と「ロリコン」は違う、ということだ。

 この両者の区別はかれらが欲望する対象である少女の年齢によって為されることが一般的だ。具体的な定義はもちろん存在しないのだが、「ペドファイル」のほうが「ロリコン」より低い年齢層に欲望を感じるとされていることが多い。

 その文脈でいうなら、大半のオタクはある種の「ロリコン」ではあっても、ペドファイル=児童性愛者ではありえないだろう。

 あるいは、児童性愛者の欲望は生まれ持った「性的志向」であるのに対して、オタクのそれは後天的に身につけた「性的嗜好」であるに過ぎない、といういい方もできるかもしれない。

 もっとも、ぼくはこのような区分を好まない。そもそも「性的志向」と「性的嗜好」の区別は、明確な科学的根拠があるものではない。どこまでが「志向」で、どこからが「嗜好」なのか、一定以上の説得力を持って語れる者はだれもいないはずである。

 そしてまた、「性的志向」であれば生まれつきなのだからしかたないが、「性的嗜好」は自分が選び取ったものだから許されない、などという理屈もばかげたものだ。この種のロジックを利用すれば、LGBTを初めとする性的少数者をいくらでも差別することが可能になるだろう。

 つまりは、世間、あるいは批判者から一様に児童性愛者のように見られている層には、生まれつき子供にしか欲望を抱けない人もいれば、ある種の「嗜好」として子供を性の対象として見る人もいる、また、可憐な「萌え絵」には萌えても現実の児童には一切の性的欲求を感じない人もいるだろう、という程度のことしかいいようがない。

 もちろん、ぼくはそのすべての人が過剰な抑圧に苦しめられることがない社会を希望する。

 ちなみに、高月靖『ロリコン 日本の少女嗜好者たちとその世界』によると、ロリコン、つまり「ロリータ・コンプレックス」という言葉が日本に持ち込まれたのは、1969年にラッセル・トレーナーの同名の本が翻訳出版されたときだったとされている。

 もっとも、これは少女が大人の男性に対して抱くコンプレックスをあらわした命名であり、いまの使い方とは真逆の意味である。

 この言葉がいま使われている用法で使用されるようになったのはかの澁澤龍彦が著書『少女コレクション序説』で紹介してからということであるらしい。

 また、その語源となったウラジミール・ナボコフの小説『ロリータ』では、主人公ハンバート・ハンバートは9歳から14歳までの少女のみを「ニンフェット」と呼んでかれなりに愛でている(愛でるという言葉を使うことが正しいとすればだが)。

 作品内にはハンバートが少女を愛するようになった理由らしきものも記されているが、あまり説得力があるようには思われない。おそらくはかれもまた生来の児童性愛者だったと考えるべきだろう。

 さて、それでは先天的とも見える欲望を持つ「児童性愛者(ペドファイル)」に対しては、たとえ嫌悪にもとづく差別意識を抱いたとしてもそれを正義として攻撃するべきではないといえるとして、後天的な「性的嗜好」の側面が強いというふうに見える「ロリコン」たちのことはどのように理解するべきだろうか。

 くり返すが、「性的志向」と「性的嗜好」を明確に区別する根拠は存在しない。そしてまた、「ペドファイル」と「ロリコン」をはっきりと区分することも言葉遊びに近いものがある。

 ただし、この現代日本社会において、生まれ持った特性として児童へ欲望を向けざるを得ない人だけではなく、幼い少女への愛情ないし欲望をどこかの時点で「学習」した人間もまた大勢いることは客観的事実といって良いと思う。

 一部の「萌えオタク」はその代表的な例ではあるだろうし、女子高校生を援助交際なり「パパ活」で買っている男性たちがすべて児童性愛者であるはずもない。

 また、児童への性的虐待や痴漢といった犯罪に走る者もすべてが児童性愛者ではないだろう。その意味で、そういう人々はたしかに「ロリコン」といえるかもしれない。

 「ロリコン」に対しては、いままでいくつか専門に取り扱った本がある。それらの本では、たいてい、かれらは批判的に語られている。つまり、大人の女性と正常な関係を築くことができないから少女へ欲望を向けた変態であり、異常性愛者なのだ、と。

 そうだろうか。この種の理屈には、現実の大人の女性へ欲望を向けることが唯一の「正常」なかたちなのだとする異性愛規範が背景にある。

 そもそも人は成人した異性に対して欲望や恋愛感情を抱くものであり、そうでない人間が「ロリコン」へ堕ちていくのだ、という考え方である。

 しかし、この発想はやはり性的多数派が自分たちの欲望を「正常」とみなしているに過ぎないと考えるべきではないだろうか。

 たしかに、日本の男たちが人間的に未熟になっていて、それゆえ、幼い少女にしか心を開けなくなっているのだ、とすれば話は簡単だ。そのような呆れかえった男たちは糾弾されるべきだということになるだろう。

 だが、そう単純な話だろうか。何より、アニメの美少女キャラクターやティーンエイジのアイドルに「萌える」人々は、「ロリコン」とはいっても成人に対し欲望を抱かないわけではないことが多数だ。

 かれらはただ、アイコンとしての美少女たちに対して、ある種の「あこがれ」を向けているにすぎないのである。これを責められるだろうか。

 もちろん、かれらがそういった美少女たちに対し、しばしば「あこがれ」とともに性欲を感じていることも事実ではある。

 そういう意味では、「萌え」を完全にイノセントな概念とすることには無理がある。「萌え」はその意味では「無罪」とはいえない(ただし、昨今、ネットでは「萌え」にかわって「尊い」という言葉が使われるようになっており、これはまたニュアンスが違う)。

 したがって、ある個人がそういった趣味、嗜好を嫌悪することは自由だが、それらを異常な特性とみなし、攻撃するとなると、それはすでに差別の域に突入している。

 昨今、ネットを見ていると、フェミニストを自称する人々が、くり返し「萌え絵」と「萌え文化」を非難しているところを見かける。

 かれらにいわせれば、幼さと性的な特徴を兼ねそなえた「萌え絵」はある異常なねじ曲がった人格のグロテスクな表出以外の何ものでもないということになる。

 そのとき、「萌え絵」を愛好している女性たちもまた大勢いる事実は無視されるか、あるいは「彼女たちは男性文化に洗脳されているのだ」、「きっと本心では萌え絵など好きではないに違いない」と歪曲される。

 オタク的な「萌え絵」趣味と「ロリコン」をストレートに結びつけることは短絡かもしれないが、「萌え絵」に対する批判が、「ロリコン」的なるものへの嫌悪を内在していることは間違いない。

 ぼくはそういった嫌悪を否定しはしない。何度でもいうが何を嫌うかは個人の勝手である。だが、それが正義でも何でもないことは述べておきたいと思う。

 それにしても、なぜ「萌えオタク」は「美少女」を好んでやまないのだろう? そもそも「美少女」に対する「萌え」とは何なのだろうか?

 じっさいのところ、「萌え絵」で描かれる「美少女」とは多くの場合、「無垢」や「あどけなさ」の象徴である。

 「萌えオタク」はべつだん、成人として未熟な人格を抱えているから萌えるわけではない。おそらくはさまざまな絵柄で描かれる美少女たちは、かれらの心のなかの「綺麗なもの」の表出なのである。

 これを笑殺することはたやすい。萌え絵が綺麗だと? 萌え絵はあきらかに醜いではないか、という人は多いだろう。そこには、薄汚い未成熟なオタク男性たちの欲望がこの上なく淫らな形で刻印されている、と。

 ぼくはこの種の意見を完全に否定しさるものではない。だが、萌え絵がただ性的に誇張されたポルノ的な絵柄であると見ることは、萌え絵の一面をしか見ていない見方だと感じる。

 萌え絵には振れ幅がある。萌え絵のなかには、あきらかに性的に描かれたものもあるし、その反対に、ほとんど一切性的なものを感じさせない絵もある。

 このことは、これといった明確な定義もなく広く萌え絵と呼ばれているスタイルに、「綺麗なもの」と「性的なもの」の両方が含まれていることを示している。

 萌え絵は綺麗なだけではないし、その逆に性的なだけでもないのだ。その両方を含んでいるからこそ、萌え絵は萌え絵なのである。

 「萌えオタク」たちは「美少女」たちに切ない恋情めいた思いを感じ、ときにはその一方で性欲も抱く。この一見して矛盾しているとも受け取れる心理をまずは理解するべきだろう。

 萌え絵がグロテスクだと見える人は、この矛盾と葛藤を醜いと感じる心性を持っているのだろう。しかし、ぼくには、それは「人間的」であると見える。

 人はだれでも「綺麗なもの」と「汚いもの」を抱えている。否、それらは同じひとつの混沌であって、人間があえて「綺麗」と「汚い」を分けているに過ぎないのかもしれない。

 切ないほどに「綺麗」なものと、どろどろとした「汚い」ものを混合させ、昇華させるものが創作であり、芸術である。「萌え」とはたしかに綺麗なだけの文化ではないかもしれないが、まさにそうであるからこそ、そこには奥深いものがあるのだ。

 これを非難する人は、自分は綺麗なだけの人間であるのだとみなしているのだと考えられる。他者を醜いと批判するとき、そこにあるものは自分自身の心の美しさへの過剰な自負だからである。

 とはいえ、その心理が「パパ活」を行う「ロリコン」男性たちとどう違うのか、ということはいえるかもしれない。あるいは、何も違わない可能性もある。

 だが、少なくとも萌え文化においては、それを好む人たちが実際の少女たちに手を出すことはほとんどない。萌えオタクと呼ばれている人たちの多くが、成人に達している人も少なくないにもかかわらず、「パパ活」といった少女売春に手を出したりしている様子がないことは、ひとくちに「ロリコン」とはいっても両者が異質なものであることを示しているのではないだろうか。

 ぼくは何も、援助交際を行う男性たちは異常だが、オタクは正常だなどといっているわけではない。それはまた不当な切り分けである。そうではなく、一様に「ロリコン」的に見えても、そこにはさまざまな個性がある、といっているに過ぎない。

 女子高生を買春する男性たちが批判されることは当然だろう。また、児童を虐待する犯罪を許すわけにもいかない。だが、何も罪を犯していない児童性愛者、ましてただアニメやゲームを愛好しているに過ぎない「萌えオタク」が犯罪者扱いされることは不当なことだ。

 この、あまりにも当然の論理を揺るがすのは、自分たちの価値観のみを「正常」とみなし、それ以外を「異常」とするマジョリティの論理だ。こういった思考はさまざまな個性が並立する成熟した社会をおびやかすものである。

 大人になろう。そして、理性的であるよう心がけよう。ぼくはまず、そういうふうに呼びかけたい。感情的な「正義の味方」は、成熟した社会の敵である。

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