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ほんとうに「強者の理論」は誤りなのか?

 Twitterでちょっと話題になっているこの記事を読みました。

http://sachiiritani.space/index.php/2018/08/18/emotion/

 ざっとまとめると、昔からよく「あなたと一緒にいると惨めになる」といわれてきたという著者が、強者としての自分を反省し、「強者の論理」を振りかざすのをやめよう、と提案している内容です。

 Twitterを見る限り、おおむね好評のようなのだけれど、正直、ぼくはいまひとつ納得が行かなかったので、いくらか批判的に内容を検討していきたいと思います。

 ぜひ、皆さんも上記のリンクから記事へ飛んで、内容を読み、いっしょに考えてみてください。

 あくまで文章の内容をぼくの視点から検討しているだけで、悪意で批判しているわけではないので、その点はご了承ください。

 さて、まず、ぼくがこの文章で違和を感じたのは、ここで「強者」と「弱者」があまりに明確に分けられていることです。

 著者は、「自分は強者で、正論で生きてて、しんどいひとの心のありようを理解しづらい人で、ナチュラルに強者の理論を押しつける奴なのかもしれない」と書いているのですが、ぼくはこれは、一見、自己を振り返り猛省しているように見えて、その実、何ら自分を批判的に見ていない意見であるように思えてしまうのです。

 つまり、著者は自分が「強者」であり、「正論」を述べていることを自明の前提と見ているわけです。

 ぼくはここで既に疑問を感じる。「ほんとうに自分は強者なのか? 相手は弱者なのか?」、「自分が正論のつもりでいっていることは、ほんとうに正論だったのか?」といった問いが、ここには存在しないからです。

 さらに著者は続けます。

世の中には動けずにいる人がいる。それは本人だけのせいじゃなく、さまざまな環境がその人をそうさせなかっただけだ。たまたま環境に恵まれたわたしがわたしらしく生きているのを見るのは、つらい。

 ここで、著者は「動けずにいる人」を「たまたま環境に恵まれたわたし」と比較しているわけですが、一見して共感を示しているように見えて、実はかれらを一段、下に見ているように見えなくもありません。

 ここには「わたしがわたしらしく生きているのを見るのは、つらい。」と書かれています。

 しかし、そうでしょうか。もちろん、「動けずにいる人」のなかには、著者のような人間をうらやみ、妬み、苦しく思う人も一定数いることでしょう。まさに著者の恋人がそうであったように。

 しかし、皆が皆、そうであるわけではない。「動けずにいる人」は、たしかに著者から見れば弱者ではあるかもしれませんが、だれもが著者のような生き方をしたくてたまらない、というわけではないはずです。

 それなのに、著者は自分の生き方が「動けずにいる人」たちのそれと比べてより良いもので、彼らは妬みをもって自分を見上げるに違いない、と決めつけているように思われてなりません。

 著者はたしかにそれを大らかに赦してあげるつもりではあるかもしれない。

 しかし、そもそもなぜ、自分が「強者」で、「正論」を有しており、相手が「正論」ではない意見を抱えていると決めつけるのか、ぼくにはそこがわからない。

 いや、自分は「強者」であるという認識は、それ自体が著者の反省のあかしなのだ、決して「強者」であることを誇っていっているわけではない、という見方もあるでしょう。

 おそらくそうなのだと思います。ですが、著者が「正論」というとき、そこに真摯な自己批判は見られないように思う。

 自分が「正論」の側に立っていることはどこまでも自明視されているわけです。

 ぼくはこれを看過することができない。著者は、自分の「強さ」が相手を傷つけてしまうのだと考えているように見えますが、あるいはそうではなく、単に無神経だったから相手を傷つけただけだとも考えられます。

 その真実はわかりませんが、ぼくには、人を単純に「強者」と「弱者」とに分けて、「強者」だから「弱者」に配慮してあげなくてはならないと考えることは、どうにも上から目線の意見であるように思われてなりません。

 なぜ、そうも自分が強く、正しい人間だと信じられるのか、そこが非常に疑問なのです。

 あえていくらか意地悪くいうのなら、「わたしはほんとうは強くて正しいけれど、それをはっきり見せつけてしまうと弱い人たちは傷つくから、縮こまっていよう」というだけの意見に見えなくもない。

 もちろん、強弱とは相対的なものですから、人が、べつのある人との関わりのなかで、「強者」のポジションに立たされることはあるでしょう。

 あるいは、著者は世間的にいって「弱者」とみなされるような立場、状況の人たちと関わるなかで、たしかにこの人たちは弱い、配慮を必要とする人たちなのだ、と考えるに至ったのかもしれません。

 おそらくそうなのでしょう。それが全面的に間違えているとはいわない。しかし、それが事実であるにしても、それは彼らの一面であるに過ぎないはずです。

 「弱者」のなかには、いくらでもリスペクトできる考えを持った人があるはずですし、それはそれでひとつの「正論」であるかもしれないと考えることもできます。

 これは著者が直接にそう書いているというわけではありませんが、もし、自分の意見だけが「正論」で、相手の意見は妬みやあこがれによってねじ曲がった意見だが、それでも相手を傷つけないよう否定しないように配慮してあげなくてはならないと考えるなら、それは傲慢というものだと思います。

 著者は「いまだに正論で生きてしまうわたしを上司に持ち、インターン生は傷つくことも多々あったと思う。」とも書いていますが、ぼくは著者の問題は「正論で生きてしまう」ことではなく、それが「正論」であることを疑ってかかることがないことなのだと考えます。

 ほんとうは人間が行うべきなのは自分の意見をあくまで「正論」だと認識しながら他人に配慮して押し殺すことではなく、それがほんとうの意味で「正論」だといえるのか、他者との真摯な関わりのなかで検証していくことなのではないでしょうか。

 著者はまるで「正論」で生きることは良くないことであるかのように書いています。

 そうでしょうか。「弱者」と対峙するときには「正論」は捨て去り、相手に合わせて優しく接するべきなのでしょうか。ぼくはそうは思わない。

 たしかに、世間で「正論」とされることが多い暴力的な意見をそのままに採用することは、「弱者」とされる人々を傷つけることがあるでしょう。

 しかし、自分が「正しい」と信じる意見や価値観があるのなら、たとえ相手が「弱い」人間であろうと何だろうと、それを曲げて話をするべきではない、とぼくはそう思います。

 それが誠実な態度というものなのではないか、と考えるのです。これはただ自分の意見を絶対視して相手を否定することとは違うことです。

 だから、ぼくは以下のような文章を読んでも、違和を覚えます。

D×Pは、大人が高校生と話すとき、「否定しない」姿勢で関わる。例えばその大人が、「努力すれば報われる」という学びを自分の経験から得ていたとしても、「努力すれば報われるよ」と高校生には言わない。努力すらできない状況下や、報われなかったケースを無視する言葉になるからだ。でも、「僕は過去にこういう経験があって、あのとき努力してよかったな、報われたなって思ったよ」と自分を主語にして自分はこうだった、と伝えるのは否定じゃない。あくまで「自分は」であって、抽象化しない。正解だとは言わない。押し付けない。それが否定せず関わるということだ。

 なるほど、「正解だとは言わない。押しつけない。」ことは良いでしょう。

 しかし、この書き方だと、たとえ「正解だとは言わない」としても、それが正解であるという考えそのものはそのままに存置されているように思われてなりません。

 この場合、ほんとうに必要なことは、異なる意見と価値観とを持つ相手との関わりのなかで、「努力すれば報われる」という己の「学び」が、ほんとうに普遍的に正しいものであったかどうかを精密に検討し、もしそれが一面的なものでしかないと気づいたなら、自分自身もまたその「学び」を捨て、変わっていくということではないでしょうか。

 ぼくにはそれがコミュニケーションの本質なのではないかと思うのです。

 ただ、上から大らかに相手を許してあげる、認めてあげる、否定しないでいてあげる、ということではなく、強弱を超えて対等に向き合うこと。

 それができて初めて、コミュニケーションが取れているといえる。ぼくはそう思う。

 この記事の結論近い部分では、このようにも書かれています。

わたしには、危機感がある。

「当事者」と「非当事者」、「理解できるやつ」と「理解できないやつ」で大きな大きな壁ができることだ。やりきれない思いを抱えて、「あんたなんかにわかるわけがない」「やっぱりあんたはなんにもわかってない」、と当事者が周囲に刃を振り回して吐いて捨てるとき、当事者じゃないひとはドン引きする。「君子危うきに近寄らず」というように簡単に離れてしまう。

 なるほど。しかし、その「簡単に離れてしまう」ことの責任は「非当事者」、「理解できないやつ」にだけあるのでしょうか。

 いいえ、当然ながら、人に向けて「あんたなんかにわかるわけがない」といった言葉を繰りだした側にも責任はあるでしょう。

 ぼくはべつだん、「だから、見捨てられも当然なのだ」といいたいわけではありません。

 そうではなく、ただ「強者」の側が一方的に「強者の理論」を捨て去ればそれで解決するという問題ではないということがいいたいのです。

 そもそも、それをただ「強者の理論」ということは正しいでしょうか。

 むしろ、「弱者」こそ強烈にその「強者の理論」を内面化していることを考えるなら、「強者の理論」と名づけられた差別の理論は、実は「弱者の理論」でもあるのだと思うのです。

 なぜなら、「強者」とか「弱者」という人間は実は存在せず、ただ自分は「強者」だ、「弱者」だと思い込んでいる人間が存在するだけだからです。

 そして、自分は「弱者」だと考えている人間は、その内なる「強者の理論(=弱者の理論)」に従って、「強者」と呼ばれる人を差別することがある。

 著者が「成功者」と書いている人たちにしても、ただあかるい光に包まれて、幸せなばかりの人生を歩んでいるわけではないでしょう。

 ひとりの人間のなかに「強い面」と「弱い面」、「幸福」と「不幸」、「光」と「闇」とが共存していることが普通なのであって、「あいつは強者だ、成功者」だという意見はいかにも一面的です。

 もちろん、そうはいっても、成功者を妬んでしまう気持ちは多くの人にあるものでしょう。それは理性ではどうしようもない強い思いであるのかもしれません。

 しかし、その「嫉妬の檻」から自分を解き放って救えるのは自分自身だけです。

 そして、その解放のためにこそ、「対話」が、「コミュニケーション」がある。

 だれかと対話する際、一概に相手を否定しないことは大切でしょう。ですが、ただ相手のいうことを諾々と肯っていれば良いというものでもないはずです。

 真摯に人と向かい合うということは、自分が変わっていくとともに相手にも変わっていくことを求めるということ、つまり、相互に変化を与え合うというだと考えます。

 こう書くと、いや、「弱者」は自分を責めずにはいられない可哀想な人たちなのだから、その「弱者」を咎めるようなことをするべきではない、という意見もあるかもしれない。

 ぼくはそうは思いません。当然ながら一方的に人を傷つけて良いはずはないけれど、相互に変わっていく対等な関係を築くためには、相手にも変化を求める必要がある。

 自分が「強者の理論」に頼らないことも大切ですが、相手にも自分を縛る「強者の理論」を捨て去ることを求めることが必要だと思うのです。

 先日、完結したアニメ『プラネット・ウィズ』に、「愛をもって視点を変えれば、宇宙は祝福に満ちている」というセリフがありました。

 そう、まさに必要なことは「愛をもって視点を変える」ことです。

 「強者」だとか「弱者」だとか、「成功者」だとか「敗残者」だとかいうことは一面的な事実に過ぎない。だから、ただ視点を変えさえすれば、またべつの側面が見えてくるはずなのです。

 問題は、「強者」の立場に立つ人も、「弱者」の立場にある人も、しばしば視点がロックされていることで、これが問題を深刻化させる最大の原因であるように思います。

 まずは視点を自由にすること。「強者の理論」を相対化すること。それが大切なのではないでしょうか。

 ぼくの意見は以上になります。いかがでしょう。ご意見をお待ちしております。

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