ゲーム

『ドラゴンクエスト』的想像力とSEKAI NO OWARI。

 ペトロニウスさんが最新記事でSEKAI NO OWARIを取り上げていますね。

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150321/p1

 SEKAI NO OWARIはたしか新潟にもツアーで来たりしているはずなので、たまに視界の端っこに入ったりするアーティストなんですけれど、なるほど、ゲームと仮想現実の文脈で見るのは面白いです。

 たしかにSEKAI NO OWARIが歌う「ファンタジー」って、ゲーム世代のファンタジーだよなあ、という気は強くする。

 べつだん熱烈なファンというわけじゃないし、何曲か聴いて感じただけの印象ですが、まあ、『ドラゴンクエスト』の世界ですよね。

 ただ、『ドラクエ』的なイマジネーションというものは、いまではもうひとつ『ドラクエ』を超えて普遍化したものだと思うんですよ。

 ぼくたち以降の世代は、仮に『ドラクエ』をプレイしたことがないとしても、その想像力を確実にシェアしているんじゃないか。

 「小説家になろう」で広く見られるファンタジー作品などはその典型であるわけですけれど、年代的に必ずしも『ドラクエ』がメジャーでない若い世代にとっても、やっぱり『ドラクエ』的なファンタジーは親和性が高いものなのだろうと思うのです。

 『ドラクエ』に始まり、一般化し、普遍化し、日本中に広がっていったひとつの「世界観」があるということですね。

 その「世界観」はもはや膨大な数のファンタジー作品に影響を与えていて、若い世代にとっては「原風景」とすらいえるものとなっている気すらします。

 どういえばいいのかな、何かきれいな風景や、神秘的な物体を見ると、ぼくなどはすぐに、ああ『ドラクエ』だ、『ファイナルファンタジー』だ、『ゼルダの伝説』だ、というふうに思う。

 でも、それってほんとうは順序が転倒していることなんですよね。

 ほんとうは現実に美しい景色や神秘なモノが存在していて、それを引用してゲーム的なイマジネーションが紡がれていったのだから。

 ただ、いまのぼくたちにとっては現実の自然よりも虚構のゲームのほうがはるかに身近になってしまっていることは、良し悪しはともかくもう完全な事実ですよね。

 たとえば「戦争」というと、まず『ガンダム』が思い出される、みたいな現象に近いかもしれません。

 いまのぼくたちにとって、ゲームの世界が「もうひとつの現実」であり、「いつかそこにいたことがあったかもしれない世界」と感じられることは争えない事実でしょう。

 たぶんですね、、、この作詞の感性って、『RPG』や『眠り姫』もそうなんですが、ゲームの世界をも一つの「現実」として前提として考えている感性なんだと僕は感じるんですよ。『眠り姫』とかも、僕らはたくさん冒険したよね!というフレーズは、僕には、ロールプレイングゲームやネットのゲームの世界で、異世界転生というか「もう一つの現実」を生きたことが、現実と等価かそれ以上の価値をもって世界を生きている人の感性が、自然にナチュラルに描かれているですよね。

 そう――SEKAI NO OWARIの歌詞の感性は、いまやごく普遍的なものでしょう。

 「ゲームでの冒険」は現実の冒険と等価である、と信じることができるセンスは、広く共有されていると思う。

 もっとも、こう書いてみてあらためて「その感覚はほんとうだろうか?」と思うことも事実です。

 これは『ログ・ホライズン』の記事で書いたことですが、現代で流通しているファンタジー的な想像力はそのほとんどが「コピーのコピーのコピー」であるに過ぎません。

 その源流にまでたどっていけばたしかにオリジナルがあるにせよ、それと比べたらはるかに色褪せた想像力でしかありえないと思うのです。

 これには異論もあることでしょう。

 アニメやゲームのヴィジュアル的な解像度は増すばかりであり、迫真の作品が次々と出て来ている。

 たとえそれが「コピー」であるとしても、圧倒的な薄力をもった作品もあるはずではないか、とか。

 しかし、そうはいっても、ぼくたちはファンタジーゲームをあくまで「ゲーム」として、「フィクション」として割り切った上でプレイしている。

 一方で、ぼくたちが単にファンタジーゲームのジョブのひとつとして扱っている「騎士」とか「魔法使い」とか「占星術師」とかが現実の存在だった時代があるのです(占い師は一応いまでもいますが)。

 もっというなら、森の奥に妖精が住んでいるかもしれないと信じられる時代が現実にあったし、どこか遠くにドラゴンがひそんでいるかもしれないと考えられた時代もあったわけなんですよ。

 そういう時代において、魔法使いや妖精やドラゴンや吸血鬼は紛れもない「実在」の存在であって、ファンタジーはただの遠い世界を描いた夢の話ではなくまさに「真実」の物語だった。

 もちろん、あるいはその時代の人々もそれらはしょせん迷信の産物に過ぎないと考えていたかもしれない。

 しかし、それにしたって、高度産業文明に守られて自然から切り離されたぼくたちとは「魔法」のリアリティが格段に違っていたはずなんですよね。

 そこにはじっさいに自然があり、脅威があった。

 森の奥には何がひそんでいるのかわからなかった。

 海の向こうには何が生きていてもおかしくないと思えた。

 そういう広い意味での「自然」に接した体験に由来するファンタジーを、ぼくは「本物」と呼びます。

 そして、きょう流通しているファンタジーのほとんどは、ひとつの作品としてどんなに優れているとしても、そういう意味ではやはり「コピー」なのです。

 現代人そのものが「コピー」に囲まれて人工の世界を生きている存在だといってもいい。

 それが「生の不全感」へつながっていくこともある。

 しかし――ここが重要なところなのですが、「コピー」が「本物」になりえる瞬間もまたあると思うのです。

 ほんとうは「フェイカー」であるに過ぎない衛宮士郎が、本物の神話の英雄であるギルガメッシュを破ったように、といえば良いでしょうか。

 なぜそんなことが起こるのか? それは、たとえその想像された世界のすべてが人工の、虚構の産物であるに過ぎないとしても、そこに宿る「あこがれ」や「なつかしさ」は本物だからです。

 だからこそ、ぼくたちはほんとうは「コピー」であり「ニセモノ」であるに過ぎないファンタジーの想像力を通して、「真世界」に――ぼくが「ウルトラマクロ」と呼んでいるものにすら触れることができる。

 それは「生の不全感」が真に癒やされるかけがえのない瞬間であり、その奇跡の瞬間を生きたという経験は、紛れもない「真実」として、「本物」の体験として記憶に残ることになる。

 『ソードアート・オンライン』や『ログ・ホライズン』はそういう「ニセモノ」であるはずの体験がいつのまにか「本物」に変わっていくというロマンを描いた物語だと思います。

 また、ペトロニウスさんがいうように、SEKAI NO OWARIもそういう「現実」と「虚構」の、「本物」と「ニセモノ」の二項対立の向こう側にある感性を歌っているのでしょう。

 橙乃ままれさんの『ログ・ホライズン』の最新の話で、、、、まだ本になっているかわからないですが、小説家になろうのサイトの一番前の方の話で、廃人ゲーマーが、自分たちの原点を思い出して、もう自分たちの大事な現実は「現実そのもの」よりもこっちにかけてこっちで積み重ねてきたんだ!!!と誇りを感じる、自分のアイデンティティがどこでつみあがったのかを再確認するシーンがあって、そうそう、もうすでにネットの世界を現実を区別したりどっちかの優位性を話せる時代じゃないんだよなって思うんですよ。拡張現実的な現実というのか、現実の在り方そのものが、ネット的なものに浸食されてからまっているので、もうどれをもって現実だとか、ゲームの世界とかネットの関係に引きこもっている?とかいうのは意味をなさないと思うんだよね。

 これはじっさいそのとおりでしょう。

 何といっても、ぼく自身が、ほぼネットだけでビジネスを完結させて暮らしている身の上であるわけです。

 いや、お金はおろか、友人も仲間も「冒険」も、すべて電子の雲の上でまかなっている。

 そして、おそらく次の世代、次の次の世代は、さらに意味が変わった「現実」を生きることになるに違いありません。

 いわゆる仮想現実の産業技術は既に商品化を待つばかりという状況ですし、おそらく、この先、拡張現実もまた社会に入り込んでくるでしょう。

 そうなってくると、ぼくたちはまさに異世界ふうに拡張された現実を生きることになるかもしれない。

 『ログ・ホライズン』のアキバの街のビルにツタが絡まり衛兵がうろつき、という風景は、まさに現実のものとなるのかもしれないのです。

 そうなった時、「現実」は完全に意味をなくすのでしょうか?

 おそらく、そうはならないでしょう。

 「現実」の拡張には、「それが便利で安全なものである限り」という制限が付くはずで、ということは、しょせん本物の異世界を再現することはできないだろうと思います。

 しかし、それでもまさに『ソードアート・オンライン』のある作中人物のように、ひとは「真なる異世界」を求めつづけるに違いないのです。

 その憧憬の想いこそが本物なのだとぼくは思う。

 あこがれこそがひとを導く――何をいっているのかわかってもらえるでしょうか。

 ぼくはひとの「想い」が本物であるのなら、どんな人工の、架空の世界であっても本物になりえるはずなのだ、といっているのです。

 問われるべきは「想い」の真実さ、それのみ。

 ぼくたちはたしかに冒険したのだ、妖精が住む森を抜け、吸血ツタが這いまわる沼を超え、往古の英雄たちのように戦ったのだ――もしほんとうにそう思えるのなら、その体験は真実なのだということ。

 わかってもらえるでしょうか――?

 いや、もう問いつづけることはやめましょう。

 いまやもう問いは無粋。「想い」は伝わるのだと、ぼくもそう信じることにしたいと思います。

 ぼくも、おそらくはこの文章を読んでいるあなたも、いつかどこかで悠久の大河や広大な平原を旅した経験をもつ、異界の冒険者のひとりなのですから。

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