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「しばき隊」による暴言は正当なのか? ヘイトスピーチを問う。

 ヘイトスピーチ関連の記事が面白くて、いろいろ読んでまわっています。これとかですね。

http://togetter.com/li/758954

 このまとめの中身を解説すると、

自民党がオタクを取り込んで戦略的に成功したのだとしたら(というかそれクラックが先に言ってたことなわけですが)、オタクはすごいから俺らも重視しようとやってきたのが00年代のリベラル。全部失敗。オタク自体だめカルチャーなのでそれをつぶすカルチャーを作らねば、というのが新しいリベラル。

https://twitter.com/cracjpn/status/543811738726981632

 反差別団体C.R.A.Cの公式アカウントのこの発言に対し、それはオタク差別ではないか、と異論が提示されたところから始まって、いろいろとよくわからないことになっている話です。

 よくわからないのですが、C.R.A.Cの言い分をぼくなりに推測するなら、「オタクを批判することは差別ではない。なぜなら、オタクであることは「変えられない属性」ではないから、「変えられない属性を誹謗中傷すること」という差別の定義には含まれない」ということになるのではないかと思います。

 ぼくは「差別」の定義を「変えられない属性を誹謗中傷すること」とすること自体に反対ですが(本人の意志で選んだ属性を誹謗中傷することだって立派な差別でしょ)、まあこの理屈はわからなくもない。

 「オタク自体だめカルチャーなのでそれをつぶすカルチャーを作らねば」という発言自体は、差別とまではいえないかな、とぼくも思います。

 しかし、問題は「ヘイトスピーチ」を社会から排除しようとしているはずの団体のメンバーが、Twitterなどの場で口汚く論敵を攻撃していることです。

 これは「ヘイトスピーチ」にはあたらないのでしょうか? かれらの理屈によると、どうもあたらないらしい。

 なぜなら、「ヘイトスピーチ」とは「社会的強者(マジョリティ)が社会的弱者(マイノリティ)に対して投げかけるもの」であり、たとえその言葉が一字一句同じであったとしても、相手がマイノリティでなければ「ヘイトスピーチ」にはならないからです。

 たとえば、ぼくがだれかに対して「このバカ野朗!」といったとする。この発言がヘイトスピーチに当たるかどうかは、その発言内容だけでは判断できません。あくまで、相手の属性(マイノリティかどうか)によって決定されるのです。

 だから、C.R.A.Cのような団体のメンバーが、しばしば論敵を罵倒していたとしても、相手がマイノリティではない以上、それは「ヘイトスピーチ」ではなく問題ないということになります。

 いま、「いや、ならないよね?」と思ったあなた、鋭いです(いや、普通かも)。ぼくもそういうことにはならないと思うんですね。

 なぜなら、たとえその罵倒が「ヘイトスピーチ」ではないとしても、「罵倒、誹謗、中傷」、つまり「暴言」であることは間違いないからです。

 「ヘイトスピーチ」に反対する団体のメンバーが「暴言」をくり返すことは問題ではないのか? ぼくは問題だと思うのです。なぜなら、「暴言」も「ヘイトスピーチ」と同じく「ひとの尊厳を傷つける行為」だからです。

 そもそも「差別」とか「ヘイトスピーチ」はなぜ悪いことなのでしょうか? それは「差別だから悪いに決まっている」、「ヘイトスピーチはひどいことに決まっている」といったレベルで決定されていることではありません。

 そうではなく、ひとの尊厳を傷つけ、名誉を毀損し、権利を破壊するからこそ悪いことであるわけです。とすれば、「ヘイトスピーチ」がその意味で「悪」なのだとすれば、「暴言」もまた「悪」でしょう。

 もちろん、「ヘイトスピーチ」は相手が弱者であることに付け込んでいるので、よりタチの悪い「悪」であるかもしれない。

 しかし、ごく当然のことに、だから「ヘイトスピーチ」は問題ありで、「暴言」は問題なしだということにはならない。「ヘイトスピーチ」も「暴言」もどちらもひとの尊厳を傷つける問題がある行為であるわけです。

 「ヘイトスピーチ」に反対するとはどういうことか。それはただ「ヘイトスピーチ」だけを問題にするのではない。そうではなく、「ヘイトスピーチ」の根幹にある悪、つまり言葉でもってひとの心を傷つけ、その名誉を侮辱することそのものに反対していくことでしょう。

 そうであるとすれば、「ヘイトスピーチ」は問題だが「暴言」は特に問題はない、ということになどなるはずがない。

 いや、自分たちはあくまで「ヘイトスピーチ」そのものだけを問題にしているのであって、実はその「悪」はどうでもいいのだ、というのなら矛盾はないかもしれませんが、それなら、いったい何を思って何のために「ヘイトスピーチ」に反対しているのか? そこが疑わしく思えて来ます。

 「差別はとにかく悪いことだからダメ」、「ヘイトスピーチは世界的に悪いこととなっているからダメ」と単純に考えて、その「悪」の本質自体は放置しているのではないか、という疑念を免れません。

 「差別」は「差別」だからいけないわけではないのです。そうではなくて、「悪いこと」を内包しているからいけないのです。ここのところがどうも理解されていないのではないかと思えてならない。

 「差別は悪だ!」、「ヘイトスピーチはひどい!」と叫ぶことは正義の味方のような気分になれて気持ちいいのかもしれません。

 しかし、「なぜ」それが悪なのかと考えを深めることなく、ただ狭い意味での「差別」、「ヘイトスピーチ」だけを問題の俎上に載せるなら、自分自身が(仮に「差別」そのものは行わないとしても)、「差別」と同種の「悪」をくり返すことになるでしょう。今回のケースは、その見事な一例を見ることができると思います。

 思うに、ここにあるものは一種の反知性主義なのではないでしょうか。ここでは「差別はなぜ悪なのか」と考えること、つまり「差別」は悪ではないかもしれないという可能性を疑うことそれ自体が「悪」とみなされているように思える。

 差別について知的に冷静に考えていくことそのものが悪いことだ、なぜなら差別は悪に決まっていて、それを疑うやつは悪いやつだからだ、というわけです。

 つまり、ここでも「こんなひどい現実を前にして冷静に考えるなんてお前は何てひどいやつなんだ!」という、あのオーベルシュタイン問題が顔を見せているわけですね。オーベルシュタイン問題とは反知性主義の問題なのです。

 こういう「よくわからないけれど、とにかく差別は悪、レイシズムは悪、ヘイトスピーチは悪、それについて深く考えようとする奴も悪」という認識に立って運動を続けると、差別に反対している当人が、平然と差別的な行為を犯すという事態が発生します。

 C.R.A.C代表の野間さんが「この糞チョソン人、すごいこと言うな…。」などと発言していることが典型的な一例です(https://twitter.com/kdxn/status/464425206295973890)。

 この発言は、どう考えても「暴言」であるばかりか、「差別」でもあると思うわけなのですが、野間さんにとっては問題ではないようです。おそらく、相手が「弱者、マイノリティ」ではないから問題ないのだ、と認識されているのでしょう。

 「ある発言は相手が社会的マイノリティである場合のみ、ヘイトスピーチになる」という定義に則るなら、この場合の「クソチョソン人」はたしかに「ヘイトスピーチ」ではないかもしれません。

 しかし、ぼくは、これはあきらかに「差別発言」であり、また「問題発言」であると考えます。野間さんは自分の発言の「悪」をなぜ問題視しないのでしょうか。問題はそれが「ヘイトスピーチ」であるか否かではなく、それが「悪」であるか否かだったはずでは?

 それは、かれが最初からその種の「悪」など問題にしてはいないからだと思います。かれないしかれらが問題にしているのは、あくまで「差別」とか「ヘイトスピーチ」それ自体であって、その「悪」については、初めから深く考えていないのでしょう。

 いいかえるなら、かれらはただ「差別」とか「ヘイトスピーチ」に対し条件反射的に反応しているだけであって、「それがなぜ、どれくらい悪いことなのか」といった面倒な議論はどうでもいいと考えているのでしょう。

 C.R.A.Cがオタク文化を「だめカルチャー」と呼んで批判するのはあたり前で、かれらの一種ヤンキー的ともいうべき反知性主義の立場からは、オタクなどはまさに「ぐだぐだ理屈を言ってばかりで、行動しないダメな奴ら」としか見えないでしょう。

 かれらにとって、「差別」とは「それについて深く考えて解決しなければならない問題」というよりは、「神聖不可侵の絶対悪」であって、それに対してちょっとでも歩み寄りを見せたりする者は「悪の仲間」であり、同類なのです。

 そこでは、差別そのものが悪いのではなく、差別によって不当にひとの権利を奪ったり、傷つけたりすることが悪いのだ、といった理屈は認識されていません。

 その反対で、「不当にひとの権利を奪ったり、傷つけたりすること」などどうでもいいが、「差別」や「ヘイトスピーチ」はひどいことだ、なぜならそうに決まっているからだ、とすら考えられているように思われてなりません。

 どうにもザ・本末転倒といった印象なのですが……。

 ぼくも「差別」や「ヘイトスピーチ」には反対します。しかし、その理由は、それが「差別」や「ヘイトスピーチ」だからではなく、そこに何かしらの「悪」を見いだすからです。

 したがって、その「悪」を打倒する過程で、自分もまた「悪」になる(ミイラ取りがミイラになる)ことは意味がないと考えます。まあ、ごくあたりまえの話ですよね。

 しかし、いや、ほんと、「正義」って扱いづらいものですね。前記事で書いたとおり、ぼくは「正義」を大切にしたいと思いますが、同時にその「正義」をも疑う柔軟さも大切だと考えています。

 「正義」は素晴らしくも恐ろしい、まさに諸刃の刃そのものなのです。

 おしまい。

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