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ヘイトスピーチと「しばき隊」の正義、その限界。

 ども。『3月のライオン』最新刊が面白いので人生が幸せな海燕です。きょうは趣向を変えてヘイトスピーチの話など取り上げようかと思います。この記事ですね。

http://lite-ra.com/2014/09/post-431.html

 「反ヘイト集団“しばき隊”は正義なのか? 首謀者・野間易通に直撃!」というタイトルですが、ようするに「C.R.A.C」(旧「レイシストをしばき隊」)なる集団のリーダーへのインタビューです。

 これがなかなか面白かったので、ぼくの感想を書こうかと思ったわけ。

 何が面白いのか。ひとつには、野間さんが、ポストモダン的な相対主義を批判しているところ。このインタビューではその体現としてのマスコミが槍玉に上がっています。

「彼らはなんでも必要以上に相対的に見る癖がついている。『断罪している我々のほうにも問題があるのだ』みたいなことを言いたがる。ヘイトスピーチ規制法をどうするのか、ということに対するマスメディアや知識人の反応も近いものがある。ようは、何もしないことのエクスキューズでしょう。俺は朝日新聞に対して『自分たちのほうに正義がある』とはっきり言った。ヘイトスピーチ対カウンターというのは“正義と正義のぶつかり合い”ではない。この問題をそういうふうに捉える時点であなたたちは間違ってますよ。追及しているわけでもなんでもなく、たんに無難なコメントを出しているにすぎない」

 ふむ?

 しかし、「ひとつの立場を絶対的な正義と位置づけることが危険性を孕むのは、歴史的に明らか」ではないかという問いに対して、野田さんはこう語っています。

「そらそうかもしらんけどさ。今、『正義のなかにも不正義がある』と言うのがそんなに重要ですか? あれだけひどいレイシズムが蔓延しているなかで、それを正そうとする人たちだって聖人君子ではない。ポリティカリー・インコレクトな場合もあるでしょう。レイシズムの方が不正義としては断然問題が大きいのに、『ニューズウィーク』の深田のように『正義の中にも不正義が…』ってことばかり言いたがるのって、単なるサボりでしょ。何がいちばんの問題か。それをちゃんと共有していこうよ。賢くない人であればあるほど、ちゃんとそれができるわけです。ヘイトスピーチはおかしいと分かる。自分はちょっと賢いぞ、と思ってるような、でも実際にはアホなやつらが、いろいろとこねくり回して『本当の正義などないのだ』みたいな、クソくだらない結論に至って悦に入る。安い理屈で価値の相対化をする前に、もっと普通に考えろよということです」

 うーん。面白いですね。「大きな物語」が失われたポストモダンの相対主義地獄において、「何が正しいのか」という価値判断が困難になり、ひとは立ちすくむしかなくなる。

 そしてそこで「ひたすら立ちすくんでいても埒が明かない」とばかりに「決断」して何らかの行為にコミットする人間が出て来るという流れを、ぼくなどはゼロ年代批評のなかで見て来たわけですが、そういう意味では野間さんは決断主義者で、ただ立ち尽くすばかりの大マスコミに怒りを感じている、というところなのかもしれないですね。

 野田さんはさらに語ります。

「在特会自体も、そういう価値相対主義の上でなりたっている。〈「反差別」という差別が暴走する〉を書いた深田政彦みたいなやつはレイシストだとは言わないが、そうした価値観の混乱こそが今の日本のレイシズムの温床であり、本体でもあるんだよね。ようするに、ポストモダンの失敗例なんです」

 なるほどねー。そういう話と繋がってくるわけか。

 ここでぼくはいくつかの感想を抱きます。第一に、在特会が「ポストモダンの失敗例」だとして、しばき隊はそうではないという根拠はどこにあるのか。同じようにののしり言葉を相手にぶつけているではないか?

 いや、もちろん野間さんの理屈によれば、「あいつらはヘイトのための言動で、自分たちは反ヘイトのために動いているんだからまったく違っている」ということになるのでしょう。

 しかし、そういう背景にある「文脈」を切り離して考えるなら、両者の言動はまさに似たり寄ったりであるように見える。この主張はいかにも危ういように思えます。

 もうひとつは、やはりしばき隊が自分たちを「正義」とみなすことの危険性です。仮にポストモダンな社会が相対主義の陥穽に陥っているとしても、それは理由がなくそうなっているわけではないわけです。

 やっぱり「暴走する正義」というものに底知れない恐ろしさがあるからこそ、そういうことになるんですね。そこらへんはどう考えているのだろう?

 もちろん、答えは書いてある。「レイシズムの方が不正義としては断然問題が大きい」のだから、それに比べれば大した問題じゃない、ということなのでしょう。

 しかし、これはどうにも危険な論法であるように思えます。ようするに「いまはより大きな悪があるのだから、まずはそっちを批判しろよ」といういい方であるわけで、「いや、両方とも批判されるべきでわ?」としか思えないんだよね。

 野間さんはこのインタビューのなかで何度か「正常」とか「普通」という言葉を使っています。たぶん「人を差別して罵倒するような奴らが悪なのはあたりまえだろ。そしてそれに対向することは正義。そんなの当然じゃないか」といいたいのかもしれない。

 ですが、ぼくとしてはそこに「何が普通であり、正常であるか?」という深い思索が欠けているのではないかと懸念せざるを得ません。

 なぜなら、それはぼくのような人間が愛好する表現を規制するために利用されて来た言葉であり、価値観であるのだからです。

 端的にいって、ぼくは自分が「普通」だとは思わないので(もちろん、ある面では「普通」だが、べつの面ではそうではないと思うので)、このいい方には違和を感じます。

 というか、反レイシズムのリーダーが「正常」とか「普通」という言葉を無邪気に使うことは、やっぱり良くないと思う。それこそレイシズムとは、自らをその国における「正常」の代表とみなし、「異常」な「普通じゃない」人々を排斥しようとするものだからです。

 「普通」とか「正常」とか「あたり前」とか「自然」とかね、そういう言葉はつまりは思考停止ワードに過ぎないことが多いので、あまり使わない方がいいかと。

 以上のような疑問はあるのだけれど、もし、野間さんなり「しばき隊」が「レイシストの罵倒はむかつくから同じことをやり返す!」と考えているのなら、ぼくは特にそれを問題だとは思いません。

 やりたいだけやればいいのではないでしょうか? ただ、それが(あるいは「善意」ではあるかもしれないにせよ)「正義」だとは思わないけれど。

 さて、野間さんはそこからさらに反ヘイトスピーチの法制化の話に持っていきます。でも、そんな法律ができたら「しばき隊」のような集団こそ裁かれてしまうんじゃないの?と思うわけですが、どうもそういうことは想定していないらしい。

 野間は「ヘイトスピーチ規制法をどんなに権力の都合のいいものにしたとしても、しばき隊をパクるのは無理よ」と豪語する。カウンターの罵声は“人種差別的”ではないし、「権力者への抗議をヘイトスピーチとするような法律を成立させることはできない」のだ、と。

「在特会の悪口として『死ね!アホ!ボケ!』って言ってるけど、それは社会で対等な立場にあるマジョリティ同士でのことだから、マイノリティへの差別煽動発言であるヘイトスピーチではない。『ニューズウィーク』の深田政彦はこの点全然わかってなかったけど、カウンターは罵詈雑言をガナってはいても差別的なことはほとんど言ってないですよ。日本はまだこのレベルでの議論をしなければいけない状況ですが、それでもそんな罵詈雑言をヘイトスピーチとして刑事罰の対象にするような法律をつくることは、いくらなんでも無理です。人種差別撤廃条約の条文をそのままヘイトスピーチ規制法にもってくると、マジョリティに対してもそれが適用できるという指摘はありますが、でもそれだって法律の運用やポリティカルな力関係で決まるものでしょう。マジョリティの差別に抵抗したマイノリティの方を規制してはならない、というレギュレーションは国際的にもう確立している。だから。法規制にむやみと反対するよりも、間違いが起きにくいように縛りをかけていくことのほうが重要でしょう」

 ただの罵倒はヘイトスピーチではない。それがマイノリティを差別する趣旨のものであった場合のみ、ヘイトスピーチということになるのだ、ということなのでしょう。

 ぼくは、その場合の「マイノリティ」とはどう定義されるのか、その正確なところを考えてみるべきではないかと思う。

 世の中には「マイノリティ」で、しかも「権力者」という人がじっさいにいるわけなんですよね。たとえば、アメリカのオバマ大統領はまさにそうでしょうし、日本でもマイノリティ出身で政界に進出している人は大勢いますよね。

 そういう人を罵倒することは、はたして「ヘイトスピーチ」にあたるのか、否か。そういうことをよくよく考えてみるべきでは?

 「人種差別的」でなければヘイトスピーチにはあたらない? そうだとすると、問題はつまりは「人種差別的」であるかどうかという言質を取られるかどうかというテクニカルな話に終始することになりそうですよね。

 「人種差別的」とみなされない罵倒ならいくらいってもいい、そうでない罵倒をした場合のみ法に触れる、と。

 いや、マイノリティをマジョリティが罵倒することがそもそもヘイトスピーチなのであり、そういう発言はすべて「人種差別的」なのだ、ということもできるかもしれない。

 けれど、ありとあらゆる場合においてマイノリティが「弱者、被害者」であり、マジョリティが「強者、加害者」であるわけではありません。

 マイノリティの人間が「強者」として「弱者」のマジョリティの人物を攻撃した時、何をしてヘイトスピーチと考えるべきか?

 もし、そんなことはありえない、マイノリティとはいついかなる時でも弱者なのだ、というのだとしたら、それ自体が差別的発言であるのでは。そんな「絶対弱者」は想像のなかにしか実在しないでしょう。

 野間さんはつまり日本社会に「マイノリティ」という特別の集団があることを法的に認めよ、といっているわけですよね。それなら、何が「マイノリティ」なのか、はっきり法律の言葉で定義できないと困ることになります。

 たとえば女性一般は「マイノリティ」なのか、そうではないのか。同性愛者一般はどうなのか。そして、自分自身が「マイノリティ」ではない「しばき隊」のような集団の活動は、「マイノリティの味方をしている」といった根拠によって正当化されえるものなのか。ぼくは無理だと思うんですけれど。

 しかし、まあ、仮に「マイノリティ」はすべて弱者であり、被害者であるとしましょうか。そうなると、多くの人物なり集団が「自分こそ真のマイノリティだ」と主張することになるでしょう。法的特権を受けるのだから当然です。

 そして、「マイノリティさ」を競いあう競争が行われることになる。そのなかで、だれが「マイノリティ」で、だれがそうではないのか。どうやって線引きをするのか。まさか「普通に」考えればわかることだ、というわけにはいかないだろうし。

 色々批判的なことを書いてきましたが、ぼくは野間さんの活動に共感するところもあります。やっぱり在特会に対しては醜悪としか思えないわけで、カウンター活動には一定の意味があるのかもしれないとも思える。

 だけれど、自らを「正義」とみなし、その「悪」に目をつむる時、やはり「正義」は腐敗していかざるをえないと思うんですよ。いっそ「ヘイトスピーチ防止法ができたらまずはおれを逮捕してくれ」というのなら、話はべつかもしれませんが。

 このインタビューはこう閉じています。

 マイノリティに対するヘイトスピーチを放置しない。そして、恣意的な法規制による言論の統制は断固否定する。

 “しかし”ではない。“そして”である。“対抗言論”をもって立ち向かう。これが筆者の答えであり、野間に対する最後の反論だ。

 「対抗言説」。言論人がそこにこそ自分の存在価値を見いだすということはよくわかります。それでは、その「対抗言説」とはどのような内実のものであるべきか。

 野間さんのやり方を拒絶するとしたら、それが次の課題として出て来るのではないでしょうか。

 ぼくはひたすらに「ヘイトスピーカー」を幼稚と決めつけたり、ただ感情的に自分の理論をぶつけたりする「対抗言説」に限界を感じています。それはまさに「対抗」しているだけで、政治的吸引力に欠ける。

 そうかといってどうすればいいかというとはっきりしないわけなんですが、とりあえずぼくはその辺をテーマにして考えてみたいと思います。これは「色あせた左翼理想主義をどうやって復活させるか?」というテーマでもあるのかもしれません。

 が、色々こむずかしいことを考えて疲れたので、『MASTERキートンReマスター』に戻ることにします。それでは、今月もよろしくお願いします。

 でわ!

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