小説

虚淵玄『Fate/zero』を熱く語る。血と暗黒のスペクタクル。

「……指針って?」
「まずは世界を半周だ。西へ、ひたすら西へ。通りがかった国はすべて陥としていく。そうやってマケドニアに凱旋し、故国の皆に余の復活を祝賀させる。ふっふっふ。心躍るであろう?」

 山がある。がれきの山。俗に「二次展開」と呼ばれる作品で出来た山容である。

 二次展開とは、続編、外伝、アニメ化、ゲーム化、ノベライズなど、ある作品の番外的な活動を指す。

 いまも昔も、ひとつの作品がヒットすると、それに便乗して無数の二次展開が繰りひろげられることに変わりはない。

 『Fate/Zero』の著者はいう。その昔、自分も二次展開に心躍らせていた時期があった。しかし、いまではそうした報せをきくと、眉をひそめ、不安に胸をさいなまれるようになった、と。

 なぜなら、ほとんどの場合、その先に待ち受けているものは失意と落胆、大切な記憶を陵辱されたという憤りだけだからである。

 二次展開の世界に素晴らしい情熱がないわけではない。しかし、それに倍する打算がある。

 美しい派生が生まれないわけではない。しかし、それに倍する冒涜が氾濫している。本編に比肩するほど優れた二次展開は稀だ。

 その理由は判然としている。ある意味で二次展開とは商業主義そのものだからである。大衆を魅了する大名作とは、果てしなく金を生み出す打ち出の小槌でもあるということ。

 そうして数しれぬ作品が陵辱されてきた。創作者である以前に一ファンである著者は、そのたびに大きな失望を味わったに違いない。かれの文章からは、二次展開に対する悲憤が読み取れる。

 しかし、そのとき、失意と絶望の黒い苗床に、ひとつの若々しい決意が芽吹く。自分で、とかれは考える。自分で書いてしまえばいいではないか。自分が愛してやまない作品を原典に、最高至上の二次展開を。

 むろん、危険きわまりない綱渡りである。どれほど愛情があふれているとしても、その愛に見合う筆力がなければ失敗に終わる。

 いまですら高すぎるがれきの山に、またひとつ凡作が積み上げられることになるだろう。そのとき汚されるものはかれ自身の名望にとどまらない。かれがこよなく愛する原典もまた冒涜されることになるのだ。

 しかし、もし、そこに待ち受けるさまざまな罠を掻いくぐれたなら。すべての陥穽をともかくも乗り越え、入魂の一作を生み出しえたなら。

 そのときこそ、かれを縛る絶望は溶け崩れ去ることだろう。選択肢はふたつ。往くか、とどまるか。かれは往くことを選んだ。

 そして、見よ、ここに奇跡は光臨する。『Fate/Zero』。その圧巻の迫力と痛快な展開で多数の読者を魅了した『Fate/stay night』の前日譚である。

 この作品は並大抵の二次展開の枠を大きくはみ出している。全6巻にわたる物語には、一行の弛緩もない。その娯楽性も緊張感も、名作のほまれ高い本編をすら上回る。

 虚淵玄はがれきの山の上に宝石の一作を置くことに成功した。

 ぼくは過言を弄しているだろうか。そうは思わない。いわゆる「外伝」のたぐいとして、この作品ほど傑出したものは記憶にない。

 まず、その内容に於いて、本編と綺麗に接合している。この物語の時代背景は本編からさかのぼること10年前、「第四次聖杯戦争」が繰り広げられる冬木市。

 「聖杯戦争」とは、あらゆる願いを叶える力をもつ万能の利器「聖杯」を巡る魔術師たちの「戦争」である。

 それぞれに野心と大望を抱えた七人の魔術師は、「サーヴァント」と呼称される英雄たちをパートナーとし、最後のひとりになるまで激闘を繰りひろげる。

 この「戦争」の結末は、すでに本編において語られている。それに背くことは許されない。並の書き手なら、予想通りの凡庸な展開しか生み出せないところだ。

 しかし、虚淵の筆力は尋常ではない。かれはこの「外伝」を本編と矛盾なく展開させた上で、波乱万丈のドラマに仕立てあげている。

 『Zero』を読むものの大半は、すでに『Fate』本編を読み上げているだろう。しかし、そうした読者こそ、あらためて「第四次聖杯戦争」の内幕に驚かされるに違いない。これほど凄愴な戦いが行われていたのか、と。

 本編の登場人物も何人か出てくるが、それはまさに本編のかれらそのものである。『Fate』の読者は、『Zero』のなかで、まだ幼い凛や桜、イリヤと出逢うことだろう。

 男装に身を包んだセイバーを目にすることだろう。そこには何の違和感もない。虚淵は職人的な手さばきで『Fate』の人物を再現してのけている。

 そしてまた『Zero』には『Fate』にはない小暗い迫力が満ち満ちている。『Fate』は愛情と希望の物語だった。『Zero』は憎悪と絶望の物語である。

 この作品に登場する人物に無垢な者は少ない。ほとんどの者が呪われた経歴と、消せない傷を抱えている。

 主人公である衛宮切継にしてからが、その手を赤々と血で汚しているのである。ひと言で表すならテロリスト。その異常な理想のために、ひとの命を天秤に載せ、常に多い方を選んできた男。

 しかしそれでいて切継は決して冷酷非情な人物ではない。いま、予想外に家族を得てしまったかれは、その愛のために苦しんでいる。

 かれの人生がどのような結末に至るか、『Fate』の読者は知っているはずだが、そこへいたるプロセスは想像以上に血まみれだ。

 もっとも、この作品の主人公は切継だけではない。『Fate』は衛宮士郎を主人公とし、終始かれの視点で物語を綴っていたが、『Zero』は群像劇を採用し、それぞれの人物をほとんど等分に描いている。その意味では、登場人物のひとりひとりが主人公だといえる。

 しかも、かれらが背負った業も切継に劣らず重い。ある者は遠い日の恋のためにその身を煉獄に落とし、またある者は己の殺人癖を満足させるため、目的もなく聖杯戦争に参戦する。

 それにしても、かれら血まみれの戦士たちが繰りひろげる戦いの、その黒々とした迫力はどうだろう。

 おそらく、その性質として、虚淵玄の才能は、本編の書き手である奈須きのこよりもっと「黒」に近いのだろう。かれが「血反吐を吐きながら」生み出した『Zero』は、どこを切っても赤黒い血がどうっと噴き出すような、そんな作品に仕上がっている。

 そんな暗黒の物語にあって、一条の光明を放つのが、召還された英雄のひとり、「征服王」イスカンダルである。

 アレクサンダーともアレクサンドロスとも呼ばれるこの英雄に、ぼくは神がかりの美青年という印象を抱いていた。一代にして大帝国を築き、わずか33歳で夭折した天才児。かぎりなく勇壮でありながらどこか儚げな印象をのこす男。

 しかし、虚淵の筆はあっさりとそんな想像をかき消してしまう。かれが生み出すイスカンダルは、豪放磊落をそのままひとの形にしたような、男のなかの男だ。

 イスカンダルは生まれながらの王でありなら、自分の臣民に深い興味を示さない。かれが関心を抱くのは酒といくさ、そして自分の高貴な生き様である。

 かれを召還したのは若く未熟な魔術師ウェイバー・ベルベット。この物語は、ウェイバーの成長物語でもある。初めは自分をあなどった連中を見返すことしか考えない気弱な青年に過ぎなかったウェイバーは、戦いのさなか、しだいに成長していく。

 数しれぬ冒険と戦争をくぐり抜けてきたイスカンダルは、いわばかれの人生の師である。しかし、この「師」はあまりにも規格外の人物で、ウェイバーの思惑をことごとく外していく。

 この凸凹コンビのユーモラスなやり取りは、暗い物語のなかでほっと息を吐けるポイントとなっている。作家の周到な計算を感じる人物配置だ。

 しかし、『Fate』の読者はかれらも最後には敗残することを知っている。史上最大の征服王がいかにして敗れ去っていくのか、これから読む向きは注目してほしい。期待が裏切られないことは約束する。

 そして、はてしなく続くかに見えた戦いの果て、魔術師や英雄たちは櫛が欠け落ちるように一人、また一人と倒れてゆき、物語は予定調和の悲劇へ邁進する。その最後に待ち受けているものは『Fate』本編でも描かれたある場面である。

 この場面を通じ、『Fate』と『Zero』は完全に接地する。あたかも、もともと構想されていたひとつの物語であったように、何の違和感もなく、ふたつの物語は溶けていく。何ひとつ救済のない静かなる終章に、『Fate』の読者はいいしれぬ感慨を覚えるはずだ。

 『Zero』は『Fate』の「外伝」として、この上ないほど洗練された作品である。その内容は華麗にして陰惨、勇壮にして淫靡、優美にして苛烈。

 ぼくは長い間こういう物語を求めていたのではないか、と思う。『Fate』はたしかに傑作だった。その隅から隅まで堪能できた。

 しかし、あの作品はどこかジュブナイルの匂いをのこしていた。ぼくはその内容に何かしらもの足りなさを感じていたように思う。

 ぼくの心の暗い半面が、もっと、とささやいている。もっと昏く、もっと非情で、もっと淫猥な世界を見せてほしい、と。

 『Zero』はまさにすべての願いを叶える聖杯のように、その法外な希望を叶えてくれた。『Fate』のジュブナイル性はここにはない。

 『Zero』は大人による大人のための作品である。何より一本のエンターテインメントとして、破格なほどおもしろい。

 いままで陰惨淫靡と書いてきたが、しかしそれでいて、その「速度」は市販のどんな娯楽小説にも劣らない。血わき肉おどる一大伝奇活劇小説。

 すべての『Fate』を愛するひとと、『Fate』をまだ知らないひとに贈る、血と暗黒の大傑作スペクタクル・エンターテインメントである。読むべし。読むべし。読むべし。

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